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ハンデル氏とロンドンを歩く(改訂版)。 [selection]

今月、下旬、シュテーガーによる"Mr. Corelli in London"、『ベガーズ・オペラ』の続編、『ポリー』を聴いて、俄然、18世紀、ロンドンの音楽シーンが気になる!クラシックにおける「音楽の都」と言えば、ウィーン。なのだけれど、音楽史から「音楽の都」を探ってみると、けしてひとつではなかったりする。例えば、パリ... バレエに熱中した太陽王の登場で、ヴェルサイユ宮を舞台に一気に花開いたフランス・バロック。太陽王の死により、フランスの音楽の中心はパリへと移り、宮廷から独立した音楽シーンが形成される。そして、宮廷には無いオープンな環境が功を奏し、間もなくヨーロッパ中の音楽家たちを惹き付け、「音楽の都」に成長する。さて、その成長のベースにあったのが人口である。18世紀、パリの人口は50万を越え、音楽のみならず、あらゆる面で"都"であったことが窺える。そして、そのパリを上回り、18世紀のヨーロッパで、最も人口が多かったのがロンドン!となると、パリに負けない、しっかりとした音楽シーンが存在していた?いやまさに急成長を遂げていた!
ということで、18世紀、国際音楽都市、ロンドンを巡るアルバムを聴きつないで、18世紀、もうひとつの音楽の都の様子を探る。そんなセレクションの試み... まずは、ヘンデルが活躍した18世紀前半!そうそう、ヘンデル、英語では、"ハ"ンデルなのだよね...

イタリア、ドイツ(オーストリア)、フランスという3本柱で捉えがちの18世紀の音楽だけれど、当然、そんな風にシンプルに割り切れることのできないインターナショナルな音楽シーンの広がりと、ローカルな音楽シーンの犇めきがあって... いつもの面々(バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディから、ハイドン、モーツァルト... )から少し視線をずらせば、興味深く、活き活きとした18世紀の音楽風景が見えてくる。そして、ロンドン!17世紀、ピューリタン革命と、それにより成立したキリスト教原理主義による共和政(1649-60)により、破壊的な弾圧を受けたイギリス音楽も、王政復古とともに息を吹き返し、パーセル(1659-95)といった天才の登場にも助けられ、18世紀の繁栄の下準備がなされた。そうして迎える18世紀!ヨーロッパ最大の人口と、資本主義の首都として世界中の富が集まり始めたロンドンの豊かさが、ヨーロッパ切っての一大音楽マーケットを出現させる。それは、ヨーロッパ大陸の作曲家にとって、ニュー・フロンティアだったか?そうして引き寄せられたひとりが、ヘンデル。

さて、ロンドンにとってのへンデルとは、どんな存在だったか?17世紀半ばのイギリス音楽の危機があり、一気にヨーロッパ音楽の僻地となってしまったロンドン。そんなロンドンにとって、バロックの華、オペラは、遠くて輝かしい洋楽... 17世紀末、パーセルらによるイギリスにおけるオペラ上演も、セミ・オペラが中心で、なかなか本場のようには行かなかった。となれば、イタリア・オペラは、海の向こうの大陸の南の夢のようなゴージャスな音楽、まさに高嶺の花。が、急速な経済力の高まりにより、高嶺の花を摘める可能性を生み出した18世紀のイギリス。バロック期のオペラの中心地、ヴェネツィアで大成功を勝ち取っていたヘンデルは、高いレベルを以ってして、ロンドンに、洋楽、イタリア・オペラをもたらすことができる逸材として歓迎されることになる。
そのヘンデルのロンドン・デビューが、1711年。それはまだパーセルが世を去って16年しか経っていない頃... そうした中で、デビュー作、『リナルド』は、センセーショナルな成功を勝ち取り、ヘンデルは、翌、1712年に、ロンドンに拠点を移し、以後、イタリア・オペラの作曲家として活躍することに... そんなヘンデルの人生で、最も順風満帆だったのが、1720年代。1719年、イタリア・オペラを上演するための団体、王立音楽アカデミーが設立され、その中心的な作曲家となったヘンデルは、潤沢な予算をふんだんに使い、イタリアまで赴き、スター歌手たちと契約。翌、1720年に、最初のシーズンの幕が上がると、本場イタリアをも凌ぐような充実したイタリア・オペラを次々に上演。『ジューリオ・チェーザレ』のような傑作も生まれ、ロンドンっ子たちを熱狂させる。
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さて、ヘンデルは、王室とも密接な関係を結び、1723年には、チャペル・ロイヤルの作曲に任命されている。そして、1727年、ヘンデルはイギリス国籍を得て、晴れてイギリス人、"ハ"ンデルとなり、その年、ジョージ2世(在位 : 1727-1760)の戴冠式の音楽を担当する栄誉にあずかる。まさにハンデルは、イギリスを代表する作曲家となった... という戴冠式を再現したキング+キングス・コンソートによるアルバム、"The Coronation of King George II"(hyperion/CDA 67286)。最新のハンデルによる戴冠式アンセムはもちろん、イギリス王室の伝統を感じさせる、ルネサンスからバロックに掛けてのイギリスの巨匠たちの作品も並び、カタログ的なおもしろさも持ったサウンド・スケープを展開。でもって、その景色の中で、ハンデルの音楽がまた誇らしげで輝かしい!
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さて、イギリスを代表する作曲家として有頂天だったハンデルが、一夜にして谷底に突き落とされる。ジョージ2世の戴冠式の翌年、1728年、劇作家、ジョン・ゲイの書いたバラッド・オペラ『ベガーズ・オペラ』が空前の大ヒット!ロンドンっ子たちは、洋楽から邦楽へと回帰。イタリア・オペラは脇へ追いやられてしまう。というバラッド・オペラの独特な世界を詳らかとしたバーロウ+ブロードサイド・バンドによる"THE BEGGAR'S OPERA Original songs & airs"(harmonia mundi FRANCE/HMA 1951071)。イギリスのバラッド=伝承曲の聴き馴染みのあるメロディーを用い、ごった煮的に展開した『ベガーズ・オペラ』。なればこその素朴さを強調した歌と演奏に触れれば、ロンドンっ子たちにとってのソウル・ミュージックを探り当てたようで感慨深い。
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そして、ハンデルに、さらなるライヴァルが出現... 宮廷における国王と王太子の対立が、ロンドンの音楽シーンにも波及、王太子の一派が、ハンデルの王立音楽アカデミーに対抗し、1733年、貴族オペラを設立。その座付作曲家に招聘したのが、ポルポラ。そう、ナポリ楽派が、ロンドンにも進出。そして、貴族オペラの目玉が、伝説のカストラート、ファリネッリ!そんなファリネッリが歌ったポルポラのアリアをジャルスキーが歌う"PORPORA ARIAS"(ERATO/999934133)。1730年代、一気にヨーロッパを席巻したナポリ楽派の勢いをそのままに、麗しく、花々しく歌い上げるジャルスキーに圧倒される!いや、当時もそうだったのだろう... そして、当時、最先端にあったナポリ楽派の音楽の、バロックの先を行くようなセンスに触れれば、ハンデルにも陰りを感じる?
ヘンデルとナポリ楽派の勝負は、ロンドンの音楽シーンを盛り上げる一方で、競争は激化、イタリア・オペラそのものを疲弊させてしまう。そうした中、1736年、先を見通せなくなったポルポラがロンドンを去る。その翌年、1737年には貴族オペラが破産。心身ともに疲労困憊だったヘンデルが倒れてしまう。そして、ヘンデルは、1738年を最後にイタリア・オペラを卒業。オラトリオに新たな活路を開き、1740年代は、ハンデルにとって、再びの黄金時代となる。1742年には、傑作、『メサイア』を初演。この作品で、再び大成功。その後も、次々にすばらしいオラトリオを世に送り出し、巨匠としてロンドンに君臨。その名声は、ヨーロッパ中へと広がり、死後、26年が経った1785年には、ハンデルの生誕100年を祝う音楽祭が開催された。そんなハンデルの音楽人生を振り返れば、そのまま18世紀前半のロンドンの音楽シーンが見えてくる。

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Chapter. 1 ハンデル氏とロンドンを歩く。
18世紀前半、ロンドンを彩る、ヘンデルとライヴァルたちを巡って...
Chapter. 2 南から、北から... ロンドンを歩く。
多様なロンドン... 最新のイタリアン・モードに、スコティッシュ・ブーム。
Chapter. 3 バック氏とロンドンを歩く。
18世紀後半、"ロンドンのバッハ"を中心に、古典派のロンドン...




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